いやしの道協会ブログ

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2019年  第11回合宿

 

令和初になる今回の合宿は、みどりの駅最寄りにあります「ホテルニュー梅屋」さんで行われました。

初めての場所になりますが会場が畳張りで、いやしの道の合宿にぴったりの環境でした。

大浴場はラジウムイオン鉱石温泉となっており温泉までいただけるとても贅沢なホテルになります。

 

 

 

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 〇受付


 

受付嬢の皆さま。

素敵な会場をありがとうございます。

 

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 〇静坐


 

高まる気持ちを静めて貴重な学びの時間の準備をします。

 

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 〇開会の挨拶


 

朽名宗観会長より開会の挨拶。

今年のいやしの道合宿ファイルに書かれた横田観風先生筆による「回光返照」についてお話いただきました。

その人その人にある素晴らしい世界を切り開くため邁進せよと、背中を押された気持ちになりました。

 

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 〇江戸期鍼灸からみた<いやしの道> 

   

     大浦慈観先生

 

 

 

鍼道発秘訣集より引用された江戸期における鍼灸から、いやしの道の真髄となる<心>の持ちようについてお話しいただきました。

技術だけではなく患者さんの全体像を観ながら楽にしてあげること。

動揺せず、冷静にとらえ、自分に何ができるか客観的にとらえて患者さんと一丸となり施術する大切さ。

病人を前にして臆病になっては駄目。攻めすぎたり、結果を求めすぎても駄目。

鍼灸を志す者として、まず何より心がけ工夫鍛錬すべきことをご教授いただき、心の修練の難しさを感じました。

そして、江戸期から脈々と私たちが今、いやしの道で教えていただいている心の有り様の大切さを説いておられたのだな、と改めて感動を覚えました。

 

続いて、日本鍼灸史の第一級史料から復刻した打鍼を大浦先生がご持参され、実際に槌の違いをモデルの方に体験していただきました。

 

 

 

 

筆者も先日、大浦先生の勉強会で水牛の槌と鉛の槌との響きの違いを体験させてもらいましたが、鉛の入った槌を使った時は背中まで響いて広がるのが心地よく打鍼の面白さを感じました。

 

とても貴重な史料と道具を用いて講義をしていただき大きな学びとなりました。

 

(文責:福永)

 

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 〇鍼道発秘の刺法 

  

      海野流観先生

 

前半はレジメに沿って講義が行われました。

 

 

 

邪に対して鈍感だったと言う海野先生。

邪がどこにあるか分からなくても鍼道発秘の治療の法則がわかれば治療できるのではないかと考えて、大まかに分けて分類し治療の考え方をみることにした。

〇鍼治療の基本ー寒熱補瀉は1章の放心、5章の大寒、4章の大熱。この3つをベースにして42の病症の病態を分類してみた。

〇似たような刺鍼点、治療法を集めてグループ分けしてみる。

〇それに名前を付けてみるとだいたいのパターンが見えてくる。

Aー熱、邪実、不出・・・鍼灸院に来院する多くの患者

Bー冷え、虚、過出・・・これだけで来院することは少ない

CーAとBが同居、AがベースにあるのでA→Bの順で処置・・・水毒がらみや神経症的な鍼灸院に永く通院するタイプ

DーAとBが同居、BがベースにあるのでB→Aの順で処置・・・中高年の慢性疾患に多い

Eー逆パターン、横ライン

〇治療法から寒熱虚実を推測する。刺鍼方法と場所から病気の体に対する一元的な仕分けをする。

 

 

後半は変形性膝関節症について図解で説明

 

 

その後、実際に膝の痛みがある人に出ていただき、診察しながら治療の仕方、気をつけるポイントなどを話していただきました。

膝関節が痛い患者さんはハムストリングも緊張していることが多いので、この部分の筋肉も丁寧に観察して治療することで、治療効果が上がることを教えていただきました。

 

 

 

(文責:磯崎)

 

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 〇グループ実技

 

指導者を含めた三人一組となり実技稽古を行いました。

会場いっぱいに広がり、それぞれの課題と向き合いながら取り組みました。

 

   

 

 

  

 

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 〇夕食&自己紹介(前半)

 

待ちに待った夕食の時間です。

 


 

三輪副会長の乾杯の挨拶で、楽しいひと時の始まりです。

 

 

 

 

食事半ば、堀副会長の進行のもと自己紹介になります。

今回、座談会のテーマにちなみ「死ぬほど〇〇たこと」です。

 

 

各々の体験や感動など、個性が感じられました。

 

 

 

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 〇自己紹介(後半)&親睦会

 

自己紹介を一時中断し、会場を移動しての自己紹介後半と親睦会となります。

お酒と自己紹介者を囲みながら和やかな時間が過ぎます。

 

 


  

  

 

  

 

大広間での親睦会は22時まで続き、呑み足りない方々は307号室で二次会となりました。

 

 

(文責:中野)

 

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 〇気功 

 

    原田修観先生

 

いやしの道協会の合宿2日目です。

 

まずは6時から近所の運動場で原田修観先生による気功です。

 

 

運動場へ行きましょう。雨が降っています。

 

 

運動場です。雨天のため今回の気功は中止でした。

 

 

10年前の第1回合宿における原田先生による気功指導の様子です。

参考までに。

 

(文責:養母)

 

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 〇妊産婦との万病一風的治療を模索して 

 

    村田底観先生

 

 

村田先生は初めに、ご自身がいやしの道協会に入るきっかけとなった大浦慈観先生の文章を紹介されました。

そこに書かれていた、理論でもハウツーでもない「相手と自分の境目が曖昧になって温かい空間が広がっていく」感じを、ご自身が臨床の場でとても強く感じられた時のことを話されました。

 

 

それは患者さんの生まれたばかりの赤ちゃんを膝の上に乗せて、患者さんを治療された体験でした。

赤ちゃんの持つ陽の気、生命エネルギーが周りの全てを包み込み、温かで穏やかな場が現れているを感じ、先生は「鍼灸師とはなんと幸せな仕事なんだろう」と思われたそうです。

 

 

講話ではご自身の3人のお嬢さんの出産にまつわるエピソードを始め、様々な妊婦さんの症例を話されました。

 

印象的であったのは、良いお産をされる方には特徴があるというお話でした。

それは尺脈を沈めて診た時どれくらい力があるかに反映される、子宮の力があるということでした。そして、そのような妊婦さんはお産が近づくと美しくなる(色気が出る)そうです。

 

そのような妊婦さんの治療をしていく中で、村田先生は鍼灸治療が、現代人の中に埋もれてしまっている原始的な生命力の持つ美しさを甦らせるものなのではないか、出産という営みが生死の淵に否応なしに直面させられる出来事であるからこそ、妊婦の治療は鍼灸治療の本質について考えるヒントをくれるのではないかと感じられたそうです。

 

またその他、妊婦の治療の注意点である合谷と三陰交の禁鍼穴について、その出所である中国や日本の古典の引用。安胎のための具体的な施灸の穴などの紹介などをされました。

 

村田先生の、一つ一つの症例から時代を縦横無尽に行き来して古典に学び、詳しく省察されて次の臨床に最大限に生かされている姿勢は素晴らしく、たいへん感銘を受けました。

 

 

先生自身、最初こそ妊婦さんのお腹に恐る恐る触れていたそうですが、普段通りの腹診の原則と同じ、気持ちの良い触れ方であれば大丈夫であり、腹部への鍼灸治療も手の内が出来てくれば大丈夫であると言われました。そして妊婦さんもご自分お腹をどんどん触られることをお伝えしているそうです。それは自分のからだの声を聞く第一歩になるからです。

 

村田先生は助産師さんと強力なタッグを組まれて、お産に臨まれています。京都では助産師さんたちが中心になって「お産を語る会」が毎月開催されているそうです。お産という話題で初対面の方同士が深い話をするこの会は、地域で人が人と一緒に生きていき、成長していくためになくてはならない場であり、女性から女性へ生きるために本当に大切な知恵が継承されていくのを感じたそうです。

 

現在、助産院あるいは自宅で出産をする人が年々大幅に減少していて、助産師さんがお産だけで食べていけない状況になりつつあるそうです。鍼灸治療のあり方と共に、そのことの持つ社会全体の損失にも思いを馳せる貴重な講義でした。

 

 

(文責:小池奈)

 

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 〇<万病一風的治療>を手ほどきする 

 

    横田観風先生

 

まずは、横田先生のお話から。

 

 

「イメージというのは非常に大切ですね。昔、鍼の学校に入ったころは約半世紀ですけど、鍼灸師と職業欄に非常に書きづらかった。当時の弟子たちも自由業とかいろいろ書いて、鍼灸師とは書かないのですね。ひどい人は漢方医と書いて後で怒られるのですが、世間のイメージが非常に低くて、なかなか鍼灸師とは言えなかった。今は堂々と言えますけど。

我々が学生の頃はとにかくテキストを探そうと思ってもテキストがない。ようやく素問を研究する先生が出した本があるくらいで、しょうがないから原文を神田に行って買ってきて、原文のまま勉強するのですが何しろ読めない。たまたま友達の坊さんに漢文の達者な人がいて、読んでくれましたから読めるようになりましたけど。

とにかくそういう大変な時代でした。そんな時代の人達が頑張ってきて、いろいろレベルがアップしてきましたので、現代では鍼灸師と言っても大丈夫ですね。私も職業欄に鍼灸師と書いて大丈夫です。職業を尋ねられても自由業と言わず、鍼灸師ですと言える時代になってきました。

イメージというのは非常に大切なのです。昔の人は鍼灸師というとそういう風に思っていた。今はちゃんとした人が多くなりましたから一般の人も鍼灸師と聞いても昔とは違うイメージを持つわけです。だから若い女性の方もたくさんこの業界に入っていますが、我々の頃は女性なんてほんの2、3人しかいないのですね。どういう人かというと若くして独り身になって子供を育てるのに食べさせていかなくてはいけない、家族を養うために40代とかそのくらいになって、学校に入って来た人がいました。そういう時代です。今は若いお嬢さんがいっぱいいて、なんか時代が違ったなと思っています。イメージが良くなったのですね。

 

 

なんでこんな話しをするかというとイメージが大事だと言いたいからです。鍼灸学校に入って驚いたのは、鍼灸の話しが多いかと思ったら、当時から生理、解剖、病理とか西洋医学の話しが多くて、鍼灸の話しがあまりなかったのですね。いまではどうか知りませんが、東洋医学を習うときは経絡を習ってツボを習うわけです。そうすると鍼灸師の人が人をみるとき、線と点でみる。あの人の何経が悪いとか、どこのツボが悪いとか言って、人間、生きているだけなのですが、鍼灸師はそういう目でみる。最初に作られたイメージは大切でして、それに反逆したのが私です。

「鍼と禅」の本を読まれた方は分かると思いますが、うちの会はそういう点と線だけではなく、立体的にもみますし、東洋医学と西洋医学をなるべく矛盾なくみられるように体系を作りました。だからそれを学んでいただきたいと思います。「鍼と禅」は易しく書いてあります。一般向けに書いたつもりですが、うちの会のために書いたのではと言われて、そうではないと思っても、読み返すとうちの会のために書いたのではという感じがします。読むと分かりますけど、命というのは流動的で絶えず変化をしている、だから病名で固定することはありませんし、生きた人体をどう診るかで、邪と毒という概念が出てきます。毒は傷寒論と関係しています。傷寒論を学んでもらいたいと思うのですが、傷寒論が漢方薬の本なのに何で鍼灸師が勉強するのかと言われますけど、どんなものでも吸収して、幅広く勉強して点と線だけだはなく、いろいろなものがイメージするときに役立つように工夫して、勉強してもらいたいと思っております。私の鍼の根底には傷寒論があると思って下さい。傷寒論の内容を鍼でできるかなというのが最初の目的でしたけども鍼だけではできないのが分かりましていろいろなものがくっついていきました。傷寒論まだ読んだ事、無い人いますか?がんばって勉強して下さい。あれは最初、慣れないと読みづらいけど、習うより慣れろです。10回くらい読めば身に付きます。」

 

 

次は先生による模範実技です。

 

 

1人目の患者は、右の膝の痛み、右の手首の腱鞘炎を訴えました。鍼に対しては敏感とのことでした。

 

「敏感にもいろいろある。少し鍼を打たれたら寝込んでしまう人とか。本当に敏感な人は鍼を刺さなくてもいいくらいだ。鍼というのはどこを刺すのではなく、敏感な人には敏感な人に合うように、鈍感な人には鈍感な人に合うように相手に合わせるのが大切。」

 

「右に症状が出ている。お腹の右の方に何かあるのでしょう。」

 

「膝のお皿の所は、消化器系と関係がある。夏に冷たい物を食べましたか?」

 

「腱鞘炎、指を使う仕事ですか?」

 

「本当に敏感か分からないから最初の一鍼が大事。まず気が通りやすいかどうかみる。」

 

まず腕の生きたツボに鍼をあて、治療を進めていかれました。

 

 

 

 

2人目の患者は、呼吸がしづらい、動悸がする、めまいもたまにあると訴えました。鍼に対しては敏感ではないとのことです。

 

「それは、水毒によるもの。水毒があって、それからガスが発生すると鳩尾のあたりが膨らむ。そうなると横隔膜が塞がり、息が入らなくなる。横隔膜のすぐそばに心臓があるので、心臓が圧迫されて動悸がするようになる。それが耳の方に上がると、めまいに陥る。そういう人は利尿剤が入った漢方薬、苓桂朮甘湯とかで体質改善できます。鍼治療では、胃腸の働きを調え、凝っている場所を緩めたりして治す。そうしないと何かあるたびに動悸とめまいが始まる。」

 

「六君子湯は飲んでいる。(患者)」

 

「それでは、水毒は捌けない」

 

「水毒は細胞に染み込んでいる。治療をしていくうちに表面に出てくる。発酵するのが夜中、午前1時から午前3時くらいに動悸がする。救急車で運ばれた場合、病院に着くころには良くなっている。ガスが出ると良くなる。」

 

 

腕の生きたツボに鍼をあて、気の通り具合を確認し治療を進めていかれました。

 

「動悸がするときはどこに打つ?学校で習わなかった?」

 

「心包経。(患者)」

 

「じゃあ心包経にしましょう。どこでもいいのだけど。」

 

「鍼は気が通ればいい。みんなやり過ぎる。それで却って患者を悪くしてしまう。」

 

 

 

 

総稽古も行われました。これはそれぞれの課題を提示してもらい、横田先生から解決の糸口をいただくものです。

 

・引き鍼の感覚がよく分からない。鍼を刺して気が巡っているのか分からない。

→引き鍼は遠くでやる。打つ場所が的確かどうかが大切。

 

・引き鍼をするにあたり体幹ではなく、指先の方に反応が出る。

→刺し過ぎると指先に行く。鍼は浮かせるように打つ。刺さなくていけない、と思っている人が打つと指先に行く。

 

・引き鍼をすると相手に痛いと言われる。

→それは痛くないようにやるべき。振動を起こす方法が悪い。ひねりがない。手だけでやらない。肘を動かす。

 

・鍼管を使わない刺鍼が上手くいかない。

→鍼を立てるときの押さえ方が甘い。切皮時にスピードが必要。

 

 

などなど課題を示し、実際に鍼を刺し、それぞれ横田先生からご指摘を受けました。

 

 

その後、いくつかのグループに分かれて実技の稽古を行い、先生は適宜指導されました。

 

 

 

(文責:養母)

 

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 〇座談会「死の臨床について」

 

 朽名宗観先生   安田無観先生


   海野流観先生   石井道観先生


   三輪圓観先生

 

 

まずは朽名先生から死の臨床というテーマをどのように捉えていけばいいのかという手掛かりとなる配付資料に関して解説していただきました。

 

 

【図版1:1983年出版の藤原新也『メメント・モリ』という写真集からの1枚の写真(インドで撮影された 犬が人の遺体を食べている写真)】

メメント・モリ:ラテン語で、死を想え、という意味。

「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」というコピーが写真に添えられている。

死を想う、ということが普段から当たり前のようにある状況は、かつての日本でもあったし、そこから日本の仏教も出て来たが、現在の管理された日本では、遺体が人の目に触れる形でその辺に転がっているということはあり得ない状況となってる。

 

 

【図版2:患者様と治療家の関係性について 朽名先生が「あたま」と「はら」というキーワードを使って示した図】

今回のテーマでは,鉢△主な問題となるが、

・,隆愀検Д▲織⇄アタマで関係していく、所謂一般社会の浅いレベルでのコミュニケーション。意識のレベルは表層。

・△隆愀検Д魯⇄ハラで関係していく、意識のレベルは深層。

死の臨床では、△隆愀犬鵬爾蠅討るようなコミュニケーションになっていく。意識の深層の方に段々下りてくる。

死の臨床は、意識の深い部分が活性化していく可能性のある場だと思っている。

 

 

【図版3:看取りというときの看るの字の一番古い形 甲骨文字】

目の形があって、そこに手をかざしているのが「看」る。

気持ちをずっと遠くの方に放っているような状態を象形しているのが、看るという字。

見の目とか観の目という言い方があるが(宮本武蔵『五輪書』)、どちらかというと観の目の見るに近いような、深い意味合いを持った”みる”がこの文字の中に含まれている。

患者さんの場合は目の前に居るわけで、遠くに居るわけではない。目の前に居る患者さんの何に向かって気持ちを放っているのかというと、多分、存在の深みみたいなものに向かって気持ちを放っていくのが看取りだろうと思う。

 

 

【図版4:「各宗教と霊魂の有無について」(正木晃『いま知っておきたい霊魂のこと』より)という表】

宗教だと霊魂があるというのが前提となるが、現代の日本人の中には唯物論的な考え方をするひとであれば霊魂さえ否定するかもしれない。

宗教によっても、これには霊魂があるけれどこれには霊魂がないという色々な考え方がある。

 

・これまでの日本人(仏教と神道が合わさった日本人):人間、動物、植物、無生命体(石、水、風、山など)にも霊魂が宿っている、或いは精霊が宿っているという発想の仕方。明治以前の日本人はこういうような考え方を普通に持っていた。

・日本以外の仏教:人間と動物には霊魂を認める、霊性を認める、でも、植物、無生命体には認めない。

所謂チベット仏教、チベット仏教に限らずインドの原理的な仏教というのは、植物には霊性を認めない。

「チベット仏教の勉強会に行った時のこと、チベット人のお坊さんは、仏が置かれていて花が供えられている前で、「仏教では生け贄は許されていません。でも、植物は霊性が無いから、供え物にしてもいいのです」と語っていた。

また別の機会に、リンポチェ(傑出した仏教修行者に与えられる尊称)の称号を持つ高僧(ラマ:聖人)の講演会に行った時のこと、そのラマは「日本仏教では、山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)というけれど、それが私には分からないのです」と語っていた。

日本人であったら、「渓声便是広長舌(けいせいこれこうちょうぜつ)」という禅語、山の川の流れる声、鳥の鳴き声、みんなそれは仏の教えを説き続けているのだという、植物にも石にもみんないのちが宿っている、というのが伝統的な日本のアニミズム的生命観だと思う。そういう僕もどちらかというと気持ち的にはシンパシーを感じるので、リンポチェの話しを聞いたときも、やっぱり大分違うのだなあと思った。」

・キリスト教:原則的に、霊性を人間にしか認めていない。

「しかし、アッシジの聖フランチェスコの様に、鳥に説法している人もいる。だから僕は聖フランチェスコが大好きなのですけれど。」

(いやしの道協会所属の敬虔なクリスチャンの方からもお話をお伺いしました)

・イスラム教:人間は霊性があると考えるが、動物、植物、無生命体は、△になっている。

・儒教:人間のみ霊性有り

・道教:人間、動物、植物、無生命体、全てに霊性有り

・アニミズム:人間、動物、植物、無生命体、全てに霊性有り

 

 

【図版5:現代の看取りにおける<お迎え>体験ー在宅ホスピス遺族アンケート(実施場所:宮城県、実施期間:2003年1月1日〜2007年1月31日)からの集計ー】

東京大学大学院人文社会系研究科、死生学について研究している科が実施したアンケート。

宮城県で2003年4月1〜2007年1月31日にかけて、医療機関を通して看取りの経験のある家に「亡くなっていった方が、他の人が見えないもの、聞こえないもの、そういうものを何か感じているようなことがありましたか」というアンケートを採ったところ、有効回答の半分が、今亡くなっていくひとたちがそういう経験をしていた、と言う様な回答を出してきた。

東北大震災の後に東北で幽霊を見るというような体験をしたという情報が沢山寄せられたが、このアンケートはそれ以前の話し。

どういうものを見たかというと、すでに亡くなった家族や知り合い(52.9%)、その他の人物(34.2%)、お花畑、仏、川、神、トンネル、その他、というようなものが挙げられている。

「僕の患者さんに、若いときに臨死体験をしたと言う人がいたのです。その人に、どういう状態でしたか、と聞くと、そりゃ物凄く鮮明に覚えている、と言うのです。今でも絵に描ける位だ、と・・・。」

 

一人称の死、二人称の死、三人称の死、という言い方がある。

一人称の死というのは、自分の死のこと。

二人称の死というのは、家族とか友人の死のこと。

三人称の死というのは、赤の他人の死のこと。

では、治療家として出会っていく、今亡くなっていこうとする人たちの死は、この三つの内のどれに入るかと言ったら、二人称の死になると思い。

しかし、患者さんというのは家族でもないし、友人でもなく、治療費をもらっていくわけで、不特定であるということもある。そういうような方たちと、どういう風に、今亡くなっていこうとしている人たちと関わりを持っていかれるか、ということを、鍼灸の臨床の場で具体的な経験をしている方達に話しをしていただくというのが、今日のテーマである。

 

 

その後、三輪先生、海野先生、安田先生、石井先生、朽名先生に、御自身が関わられた死の臨床の場について、具体的なお話をしていただきました。

時間の関係でご用意いただいていた全てのお話をお伺いすることが叶いませんでしたが、三輪先生のお話は以前の機関誌に、石井先生のお話は今度の機関誌に掲載されるということです。

 

 

治療家として腹を括るということ、どのような場にあってもいつも通り自分の出来ることを只淡々と一生懸命に行っていくこと、鍼灸治療が病自体をどうにかするということにはならずとも目の前の方の何かしらが変わるきっかけとなり得ること、患者様とそのご家族とご自宅という場での臨床について、死や生の様々なかたち、等々、死に関してだけでなくどのように生き日々過ごすかということについてもおもいを馳せる時間となりました。

 

最後に朽名先生が、配付資料の詩をよんでくださいました。

 

「今日は死ぬのにもってこいの日だ。/生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。/すべての声が、わたしの中で合掌している。/すべての美がわたしの目の前の中で休もうとしてやって来た。/あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。/今日は死ぬのにもってこいの日だ。」(ナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』)

 

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 〇閉会の挨拶、記念撮影

 

副会長の前之園空観先生から閉会のお言葉をいただきました。

 

 

「みなさん二日間お疲れ様でした。

 

最後は死の臨床ということでありましたけれども、死を意識することで逆に命というものを意識していることになるとおもうのですね。

 

今年はいやしの道協会の新たなチャレンジとして、死の太極にあるような、あそこにね、いますけれども、お子さま連れでも参加していただこう、いやしの道協会は女性の社会参加を応援します、ということで(笑)女性の方はどうしてもああいう可愛い子がいると本能的に助けてあげたくなってしまうのだと思うのです。ですので、今年は、男性指導者陣が子守をして遊んでもらうということで、やらしていただいたのですけれど、結局、最後はお母さんには勝てないのですね、僕たちはねぇ、そいうところが、おじさんたち、すごく可哀想だなあと思って、石井先生のことを見ていました。(笑)

 

この閉会の言葉や宴会の時の自己紹介の司会等は、東京の副会長3人でまわしているのですね、ですので3年おきくらいにこの閉会の言葉になるのですけれど、前回この言葉を言ったときが、ちょうどブラジルからの参加者が来るというときで、そのときも新たなチャレンジということで、いやしの道協会というと、特定の立場に拘らないということでやっていますので、常に常に新しい方たちを受け入れようとは思っているのです。

 

しかし、誰でもウェルカム、どんどん色々な人が入ってくるというのは、それだけいろいろなことがごちゃごちゃになってくる、何でもかんでも有りになってしまうという危険性もすごくあるのだと思うのです。ですので、誰でも来ても良いのだけれど、誰が来ても大丈夫なようにいなくてはいけないというのも、実際すごく大切なところで、誰が来てもいいように、というふうに今回やってくれたのが合宿の係の方たちなのですね、毎年、紹介させていただいてますけれども、坂井さん、牛尾さん、福嶋さん、中川さん、みなさんが思っている以上にいろんなことを準備してくれていると思います、改めてありがとうございました。

 

誰でも受け入れる、誰が来てもいいように準備をするという会でありたいとは思いますけれども、その中でも何かみんなの中でひとつ真理になるものが会として繋がりの根本に持てるように、それが万病一風論の風という部分なのか、いのちとか、いやしとか、という言葉で何で表すのかは分からないのですけれども、そういう会であれたらいいなと思っております。

二日間がみなさんにとって、これから進む道の何かの足しになったら良かったなと思います。お疲れ様でした。」

 

(文責:小池理)

 

 

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(写真:伊藤・尾崎)

 

 

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